参宮線六軒駅事故から52年

昨日の続きから。

気になったニュース:
52年前のSL事故で追悼式 和歌山・橋本市


とりあえず、事故についての説明とかは他にも詳しいのがあるのでそっちを参照してもらえれば。
六軒事故(Wikipedia)
彼方の参宮線六軒駅事故
で、先日どこかから出てきた当時の新聞のコピーを探したのでUPしておきます。
コピーの精度というか元々の紙面の程度にもよるのでかなり粗いんですが、こんな感じです。


白黒ですが、分かるでしょうか?この画像は鳥羽方面から来た名古屋行き快速列車を撮ったもの
(誌面の説明とは違うのですが、見取図を比べるとこの角度は上り列車を撮ったものみたい)
で、重連のSLが脱線、先頭の主務機が転覆、蒸気を吹き上げているのが見て取れます。
名古屋から来た鳥羽行き快速列車の客車(鳥羽寄り1号車)がこの先頭の機関車の下敷きになってます。


誌面の見出しはこんな感じ。
「・・・参宮線事故現場はドロ沼のようなタンボであるため遺品がドロまみれになって淡い月光のもとに
照し出されているのも何らかの悲しみの情をそそり、重傷者は続々と駅の構内にタンカで運び出され駅員
の休憩所や野犬の駅の構内に横たえられて応急の手当をうけている。しかしどの負傷者を見ても頭から
手足までも全くの泥まみれ、頭や手足には血が一面ににじみ出て惨たんとした感じだ。


事故の瞬間、衝突列車の機関車が急を告げる号笛がけたたましく、長く長く鳴りひびいた。三雲村(今の
松阪市消防団員らがかけつけるまで約20分。転の汽車内は魔の地獄。機関車は車輪と車体がばらばらと
なって、大きな口をあけている。蒸気が一ぱいに立ちこめた車内の中に乗客は折り重なって倒れ、窓ガラス
をわり、外にはい出る者、誤って車輪に体をはさまれて血しぶきをあげる者もいる。
車内に入った消防団員の手に「お母さん、助けて!」としがみつく女子学生。「がんばれ、がんばれ」の
声に「うんうん」と声をしぼってはい出てくる青年、消防団員の電池の光に照らし出されてくる負傷者を
つぎつぎと運び出していくタンカ、戸板、コモ、医の者来るまで重傷者は一たん六軒駅内に運ばれ
「苦しい、もう殺してくれ」と泣きわめく者もおる・・・」


当然私はまだこの時は生まれてないのですが、親の話によると駅から家まで直線で約1キロくらいある
んですが、衝突した時の音と振動が伝わってきて地震かと思ったくらいだったそうです。
それからこの周りの住民で集まってみんなで線路を歩いて駅まで向かい、地元(旧三雲町消防団
久居、松阪警察署員、自衛隊員と共同で救助活動を行ったようです。
事故発生が18時22分という事で既に辺りは暗くなってて、更に転覆した車両が線路脇の田に転落して
助け出された負傷者、遺体、周辺に散らばった持ち物も泥まみれで救助活動も相当大変だったようです。

これは現在の事故現場です。本線(キハ85系南紀紀伊勝浦方面行き)を走っている左側に伸びて切れて
いるのが側線で、ここに下り列車が突っ込み脱線、転覆しました。そのあと左側に落ちていけばまだ
被害も小さかったんですが、重連の機関車が分断され補機が右側の田へ転覆、本線上に1両目の客車が
ふさぐ形となり、そこに上り列車が衝突したというわけです。
ちなみにこの右側に止まっている車の上に何か伸びている物がありますが、これはこの事故の慰霊碑です。
現在でも地元の中学生が清掃活動を行い、花を飾っています。


で、その衝突した上り列車を牽引していた主務機(先頭)がこの和歌山にあるC57110というわけです。
今は公園でひっそりと余生を送っているようで、なんか説明書き等もないとか。
本当の理由は分かりませんが、この歴史を辿ってきたのならさすがに付けられないなあと思います。
また来年になるとは思いますが、1度見に行きたいなあと思ってます。


この事故と三河島事故を経て、国鉄にATSの整備が進んだということです。
戦後のすぐにはこういう大きい事故があって、その度に全国規模で鉄道システムの整備が進んできたの
ですが、よもや近年にも悲劇が起こるとは思いませんでした。人為的事故だけは後を絶たないわけで。
種類もいろいろありますが、防ぐことの出来る事故だけはどうか起きてほしくない、のが1人の鉄道好きと
してのせめてもの願いです。


レス:
カーフさん
>肥満のもとになるので注意ですよ
寝る前じゃなかったら大丈夫です(オイ
>呉は・・・もうちょっと遠いか
最初呉のことかと思ったんですけどね
>都市化がすごい癖に全く新車が来ないから情け無い限りですが・・・(汗)
平日朝ですか・・・これは今回は無理です(悲)誰か撮影してないかなあと思ったんですが、ここに。
・・・これすげえ!!見てみたいです!!